包丁を研ぐ? ~ハイレゾ雑感3

ハイレゾの良さが解らない・・・ という話は実は業界の中でもよく聞く話だったりする。

結局いい機材で聞かないとダメなの?
という質問もよく受けるのだけど、先ずは 「もっといい音で聴きたい!!」 とリスナーに思わせるようなソフトをソフトメーカーが作らなくてはいけないとも思う。

そういう意味で、ある意味レコードやテープは究極のハイレゾかもしれない。
なぜって? それは音楽の波形を余すとこなく写し取っているから・・・・
それに対して今のデジタルの技術は波形のある部分だけを何万分の一秒ごとに切り取って送っているから、どうあがいてもレコードやテープには勝てない部分がある。

だから若い人たちの間でレコードで音楽を聴くという文化が復活している現象もわかる気がする。 結局彼らは自分たちが気づかない部分で敏感なのだ。

George Massenburgってアメリカでも有名なプロデューサーのセミナーを受けた時に、
誰かの iPodなどで圧縮された音を聞くことについてどう思うか?
という質問に対してGeorgeは 圧縮された音の音質について議論するのは甚だ馬鹿らしい。

僕たちはそれと引き換えに音楽を安く、手早く、どこでも聴けるというシチュエーションを手に入れることができた。
圧縮された音楽に払うお金はその便利さに対する対価だと思えばいいんじゃない? と答えた。

これはここ20年の音楽マーケットの側面を語った象徴的な言葉だと思う。
僕たちは便利さに対する対価をお金と心のどこかで払ってきた。 だから、その失われたものに対する欲求が若者のレコード回帰という現象に遭われているのではないだろうか?

結局、人の心ってお手軽なものばかりで満たされることはないのだと思う。
一生懸命お小遣いをためて一枚のレコードを買って、それを大切に聞く・・・・
そんな経験を持った世代は幸せなのかもしれない。

愛おしく思えるものの一つとして音楽があったのだから・・・ で、ハイレゾの送り手の問題の方に話を移すとここ20年間の間で失われてしまったものが録音の現場でもかなりあって、そういったことを一つ一つ掘り起こして確認していかなければならないのではないだろうか?

たとえば(映像の話になってしまうけど)8Kのカメラに使用するレンズは何百枚と研磨されるレンズの中から厳しい基準を通り抜けた1枚だけが選ばれる。
そういったレンズでなければ8Kというメディアの持つポテンシャルを引き出すことが出来ないからだ。

では、ハイレゾの世界でそんなことに対するこだわりが復活しているかというと、
正直なところ疑問もある。

デジタルの黎明期はアナログ技術の絶頂期と重なるのだけれど、その頃のアナログの技術はどんどんと捨て去られたままだ。 テープレコーダーだって本当に素晴らしいサウンドをしていたのに今やテープメーカーも生産をやめてしまっていて、たとえテープを手に入れたとしても品質のばらつきに悩まされる。

リバーブ(響きを人工的に付加する装置)だって鉄板を使ったものや実際に専用の部屋を使ったものなど、素晴らしいものがたくさんあったのに、それらも全てデジタルのマシンに置き換わってしまって、今やパソコンの中の処理で終わってしまう。

いつの間にか僕たちは利便性と引き換えに色々な大切なものを忘れ去ってきているようだ。

そんな状態で新しいメディアに立ち向かってもそこに反映されるのは、便利さの上に怠けることだけを覚えた製作者の姿に過ぎない。
そう、メディアって実は厳しいのだ。

DSD(ハイレゾの規格)はCDの16倍の情報量があります・・・ というけれど、
そこに音を詰め込む僕たちは、やっぱりそこを真摯に受け止めて、自分たちの足元を一つ一つ確認する作業を始めなければならない時期に差し掛かっている。

結局、感動できる音楽って演奏もさることながら、それを伝えようとする人間の ”想い” の積み重ねだと思う。 録音の現場で聞いている感動を、みんなで一緒に味わえたらこんなに素敵なことはないだろう・・・

残念ながら音は、メディアに記録される時点で情報量を選別されるし、
だからと言ってスタジオに入れる人数にも限りがある。
でも僕たちはみんなをそこに連れて行くために仕事をしているんじゃないか?

料理人が包丁を研ぐって、良いものを届けようとする想いから始まる行為だと思う。
包丁を研ぐことを忘れた料理人が、ハイレゾという器に料理を持っているとしたら 、
それは良さも伝わらないだろう・・・

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